父の記録

父の変化に気がついてからレビー小体型認知症とわかるまで。

 

2002年2月~

First Stage                   

「お父さん、私を見て! 見える?」 
いつから、この言葉が私の口癖になったのか思い出せない。

ひとりっこの私はおとうさんっ子だった。
気の強い、しっかり者の美人の母より小柄なやさしい、
背広の良く似合う父が大好きだった。

2002年4月虎ノ門病院神経内科で「脳血管性痴呆症・中程度」と
父は診断された。

徘徊の始まり

その前年の暮れ、母が大腿骨骨折で入院しているとき、
ふしぎなことが数回あった。
真夜中に物音がしたような気がして玄関をあけると、しっかりコートを着た父が
どこかから帰ってきたところだった。
「どうしたの?どこへいったの?」
父は困惑した顔で「いやーそこまでー」

翌日父に確かめると、「大久保だんごのところの信号であれっと思ってね、
帰ってきたよ」
記憶があるからだいじょうぶかなと私は勝手に解釈していた。
母の世話で病院通いの私は、疲れきっていた。

また夜中に父が出かけるところを見つけた。
「どこいくの?」
はっとしたふうの父は「ひとまわりしてこようっと思ったんだよ」
「いま、夜中の2時よ、寝なくちゃ」
「そうかい、じゃ、ねるよ」
また翌日確かめると「現場に行く前に事務所でトイレに行こうと思って
探したんだけど、トイレがなくてね、」

建築関係の仕事を81才までやってきた父だから寝ぼけると
外へいきたくなっちゃうのかなとまた私は勝手に解釈した。
私の中には父がぼけるなんていう考えは微塵もなかった。

父の行動が不思議だなとは思ったけれど、ふだんの父は以前とかわりなく、
朝の新聞取りも部屋のそうじも書斎の整理もいつものように几帳面に
こなしていた。

不安気
ただ、母の病院へ荷物を持っていってもらうときに父がふっと見せた
不安そうなまなざしはひっかかった。
母が言った。
「お父さん、疲れるみたいだから病院によこさなくていいわよ」
私は父がなまけていると思ったのだ。

日常の習慣が崩れる/幻視、せん妄の始まり

春になって、ゆっくりできる日があって、寝ていたら
夫が「お父さん、昨日から新聞取ってないよ」
そういう日がちょこちょこ増えてきて私も父の様子を
すこし、気をつけてみるようにしていた。

昼ごはんをいっしょに食べていら父が突然言った。
 「なんだか怖いんだよ」
 「なにが?」
 「椅子にだれかすわっているんだよ」
 「だれ?」
 「知らない人」
 「・・・・」
ご飯をすませてふたりで階下の父たちの部屋へいった。
 「今そのひといる?」
 「今いない」
 「そう、お父さん、疲れてるんだよ、お母さんいないし。
お清めのお塩をおいてあげるからね」
私は小皿にお塩をもって、3箇所に置いた。

翌朝、父に知らない人が現れたかたずねると
こなかった、お塩が効いたと言った。

また別の日。
 「お父さん、ごはんよ」
 「ね、ご飯出さなくていいかね、こっちで食べていいのかね、
 今、みんなでテレビをみてるんだけど」
 とうれしそうな顔で2階に父が上がってきた。
 「え?だれかきたの?お客さん?」
 「○○建設の人たち、部下だよ」
 「え?何人よ」
 「8人か」

父はほんとうににこにこしていた。
「テレビみてるの?」
私はもしかして私の気が付かないうちお客さんがきたのかもしれないと
思い、下にばたばたと駆け下りた。
テレビはついている。
だれもいない。

 「お父さん、ごはんどうぞ、ほかの人はテレビみてるから・・・・・」
 「わかったよ」

私の心臓はぱくぱくしていた・・・・

2002年4月~ 

Second Stage               

神経内科

「お母さん、やっぱり病院に連れて行くわ」
入院中の母に了解を得た私は父の腎臓の主治医であるK先生に
電話をした。
20年以上もお世話になっている先生は父を心配してくださって、
すぐに連れて来るようにとおっしゃってくださった。

先生のお顔を見たとき、なぜかほっとした。
このとき、父の顔からは表情が消えていたのだが、
先生には、「なんだか頭がはっきりしなくて」
と症状を訴えていた。
翌日、神経内科の診察室にはいった。

 「どんな症状?」
 「はっきりしなくて」と父。
 「ぼーっとするというので。」と私。
 「まじめなかたですね、ひと目でわかりますよ」
先生はおっしゃった。
 「ほかには?」
 「夜外にでかけます、」
父がつい最近まで仕事をしていたこと、しっかりしている部分もあること
情報を先生に伝えなくちゃと私はまくしたてた。
心のどこかで父はだいじょうぶだと思いたかったのかもしれない。

簡単な運動と、歩行テスト、長谷川式の知能テストをした。

この1週間でMRI検査も受けて小さな脳梗塞がたくさんあるが
脳の萎縮は認められない。
脳血管性の痴呆症、中程度と診断された。
処方された薬は脳の血流を良くするための「サアミオン」

「ふつうに接してください」
この言葉を信じて私はすこしほっとしていた。
たいしたことはないと信じてしまった。
だって、普通の日が多いんだから。

2002年5月~

Third Stage                 

副作用/グラマリール

父の様子がおかしくなっていたころ、母が一度退院してきてその日のうちに
ひざを骨折して病院へ逆戻りとなり(病室のネームプレートも交換されていない
うちに)、大変な時期だったので私の手帳は2002年のものはない。

だから父をいつ病院へ連れて行ってどうだったのかも書き留める気持ちの
余裕もなかった。娘の大学受験もあった。父と同じ大学、学部で専攻も
同じだったから父もいっしょに大学の入学式に行った。
父は大学の校歌を歌っていた。 
息子はどうしていったっけ。記憶にない。
やんちゃで大変だったことは覚えている。でも私の頭はいろんなことで
いっぱいだった。
息子のクラブのアイスホッケーの試合にはかかさず行った。
父も一度ホカロンとクッションをもって一緒に見に行った。
楽しく過ごした。

母が退院してきたのは5月の中旬だった。
それからしばらく平穏で、やっぱり母がいなかったから
おかしくなったのだね、と母と話した。
ほんとうに以前の父に戻っていた。

いつのことか、覚えていないし、そのころは院内処方で
お薬手帳はなく、処方箋も処分してしまったので
確かなものではないが、譫妄を抑える「グラマリール」
を父は1ヶ月ほど飲んでいた。最初の診察でだされたのかもしれない。
ところがこのグラマリール、父に悪さをした。

「ゆみこ、ちょっときて、お父さんおかしいの」
車椅子生活の母がある晩私を階下から呼んだ。

行くと、ベットの前でパジャマ姿の父が固まっている。
「どうしたの?」
「・・・・・・」
「どしたの?おとうさん?」
「・・・・・ベットに横になりたいけど、なれないんだよ・・・・」

その日から父がほんとうの痴呆老人になってしまった。
・よだれがとまらない。
・ベットから起き上がれない、横になれない。
・歩けない。
・返事ができない。
・次の行動がわからない。
・夜はトイレの場所がわからない。・

私はインターネットで必死でグラマリールの実態を探し続けた。
薬自体の副作用は出ているが、その実体験の事実が欲しかった。
ぐるぐるまわっているうちに、ある70台の女性のグラマリール体験が
見つかり、確信した。運動機能を極端に低下させてしまう副作用だった。
即、服用を中止して次の診察で先生に症状を伝えた。
そんなにひどい譫妄ではないということで速攻中止となった。

本当は先生に確かめてから服用するか中止するか決めなくては
いけないが、私はここで確信があったので先にやめてしまった。
でもこのあと、薬には勝手にやめたり、はじめたりしてはいけないものも
あることを勉強した。
もう秋になりかけるころだったような気がする。

グラマリールが体から抜けるのにしばらくかかった。
水分を多めにとり、早く抜けることを願った、
父は私の言うことを忠実に守った。

父は腎臓がひとつしかない。
ひとつでも機能は変わらないというが父の82才という年齢が
気になっていた。
腎臓癌はもう10年がたち再発はないというお墨付きはもらっていた。
素人だからわからないが解毒したものを流しだす力の弱さが気になって
仕方がなかった。

2ヶ月に1回の診察は、父の手の動き、指(親指と人差し指をぱちぱちとくっつける)
の動き、歩行の様子を見て、私になにかあるか聞くというもので
先生のコンセプトは「普通に接して過ごす、デイサービスもいい、家族が介護が
困難でなければ普通に過ごして」というもので
父の徘徊も、夜のトイレ騒ぎ(放尿)も昼間の落ち着きのない姿も
週に1,2回だし、グラマリールもやめたら普通になったし、
でたいした負担ではないと
私は考えて特に、先生に訴えなかった。
また訴える雰囲気でもなかった。
一回だけ、「どのように接すればいいか」と尋ねると
先生はおっしゃった。
「普通に、普通に接してください」
なにが普通なのかどうしても納得できない自分がいつもあった。
だれも痴呆症の説明はしてくれなかった。

**********************************
   
父の行動 (症状)                     2001年12月~2003年3月

初期 
 
・朝の新聞、郵便物などを取りに行かなくなる。
・夜中に外出する。(衣服は着替えてきちんとしている)
・このことを翌日きちんと覚えていて説明ができる
・譫妄(いろんな登場人物がいる、たまに怖いというが
・自分の知り合いだととても楽しそう。)
・そんなことないよと説得すると、そうだ夢だと判断している

・うつ状態のような感じで元気がない。

私の対処   この時はまだ週1.2回のことなので気にならなかった。

**********************************

その次の時期
  
・落ち着きがなくなる
・10分の間に10回以上玄関のドアをあけ閉めする
・書斎の整理整頓ができなくなる
・一度寝て、トイレに起きると1階から3階まであがってきて
・トイレを探す。ふとんを抱えてくることもある
・時には玄関の外で前庭でしている
・夜はどうしても出かけたいらしく、最初は服を着替えていたが
・2回警察のお世話になったときはスリッパにパジャマ姿だった
・話はよくする。 理解力も判断力もある。孫と建築の話ができる
・塀を乗り越えようとして塀の上で動けなくなる。

 

私の対処    徘徊と放尿(毎日ではないが)が困ったので夜中にトイレが
       わかるように、ドアに夜光塗料のついたプレートを張った。
       父が自覚してくれたのは数日だった。私はただおしゃれに
       こだわっていたのだ。次に近くにいくと明かりの
       サインがつくセンサーをつけた。ここにいたるまでに3種類の
       センサーや、電気をためした。
       これは持続したけど、電池がもったいなくて、また父が
       自覚しなくなったので本格的にトイレの電気をセンサー式
       にかえた。(生協で購入)

       ドアもスポンジストッパーで完全にしまらないようにした。
       これで1年ほど持った。

       玄関のドアが見えるとどうしても外へ行くので、ドアに新聞紙を
       4枚つなげたものを張り、母から父に暗示をかけてもらう。
       「この新聞はゆみこしかあけちゃいけない。」
       これは効果大でしばらくだいじょうぶだった。

       ただ家族はたいへん。仕事で帰りの遅い夫が戻るまでの
       数時間が危なくていつもチェックしていた。

       父の部屋から玄関に行かないよう、大きなダンボール箱を
       解体してつい立をつくった。ガムテープだらけのひどいものだけど
       これも役に立った。ほんとうの木などのつい立ては倒れると危ない。
       
       夫の仕事は夜中にもどったら、新聞を張り、つい立てをひろげて
       バリケードを作ってから2階にあがることとなった。どんなに
       酔っ払っていてもこれだけはやってくれた。感謝。

2002年7月~

Forth Stage 

徘徊の繰り返し、せん妄の中と現実と同時進行  

父はいったんベットにはいって、3時間ほど寝ると起きてきて、
外へいこうとする。
つい立てもしっかり動かして出て行く。
2002年から私は3階の寝室で寝るのをやめて、2階の居間でねていた。
呼ばれたらすぐ1階に行かれるように。
父が動くとわかるセンサーもつけた。
最終的に2個を使った。そのメロディで居場所がわかる。
そのかわり、私の頭の中も猫たちの頭の中もこのメロディが
常に聞こえるような感じになってしまったが・・・

母が呼んだ。
「お父さんが警察にいるって。」

息子が試験勉強で起きていたのでいっしょに父を迎えにいった。
警察では初めてかどうか聞かれた。時々といっておいた。
[お名前も住所も電話番号もご自分でおっしゃれたのでだいじょうぶですね」
ど、警官。

「お父さん、目覚めた?」
「覚めてるよ」
うちから警察署までほんの3分だが、父の話は次のとおりだ。
「八百屋さん(すぐ近所)の前から人だかりがしていて、うちの前まで
人があふれて、うるさいから、警察に整理してもらおうと思って
行ったのに、着くなり、名前を聞かれたよ、まだ、こっちの話をしてないのに」

2回目は「私が通った中学校へ行こうと思ったが、
道がわからなかったので警察に聞きにいった。
ひとりで帰るといったら、待っているように言われた」
寒い日だったのに、パジャマだけだった。
2回目は徘徊名簿のようなものに住所、名前、連絡先を書かされた。
名簿には、たくさんの名前があった。
ここはお年寄りの多い地区だから警察も大変だと思った。
でも地域で見てくれるのを知って、すこし安堵した。

ある晩、物音に気がついて一階に行くと父がいない。
猫もいない。母はぐーぐー寝ている。
トイレにも書斎にもいない。
玄関の鍵が開いていた。つい立ても。
外にいくと、高さ120cmの塀の上に父がまたがっていて、どちら側にも降りれなくて
困っていた。
その足元で猫もうろうろしていた。
ふだん、弱々しい足がどうしてここまであがったのだろう。
父をおぶって塀から降ろし、部屋に戻して、寝かした。
横になったとたん、ぐーぐー寝てしまった。
やっぱり夢の中にいたのだろうか。

翌日父と話すと、笑って言った。
庭の花用の木樽をひっくり返してその上にのぼって塀に足をかけたそうだ。
話によると、以前にもほかのものをおいてのぼったという。
そういえば、朝、塀のそばにいろんなものがあった日があったのだ。
門の鍵を欲しいと言ったが私は頑として渡さなかった。
「事故にあったら、困るからね」

私の頭は混乱していた。
父はどのへんがぼけているのかな。
わかっているのはどのへんなの?

2003年3月~

Fifth Stage 

デイ開始/幼稚園だとがっかりしている                     

2002年の10月に私は急性腎盂腎炎で入院した。
熱がなかなか下がらず、参った。
この5年ほど母が骨折をくりかえし、入退院が多かったし、
車椅子生活になった母のことと父のことで私自身も疲れ果てていたのだと思う。
母はこれをきっかけに介護認定を自分から受けて、サービスの利用を始めていたが
父はまだだった。

父がぽつんと言ったことがきっかけで私は決心した、父に外出の機会を作ろうと。
「目的がなくなっちゃったから、何にもすることがないし、義務がないから
やる気もなくなるんだよ」

80くらいまでシルバー大学に通い、友人たちとの食事会にも欠かさず出かけ
それなりに過ごしていた父が行くところがなくなっていた。
11人兄弟の8番目で、残るのは一番下の妹だけだったし、親戚付き合いもないし、
つまらなかったと思う。
この間にも地域のカルチャースクールに、私が連れて行くことを前提に
申し込んだりしたが、私の都合だったり、父の具合だったりで
通学できなかった。
絵もやりたいなといっていたので、絵画教室を考えたが、
結局、痴呆の老人を受け入れてくれる一般教室があるのか
わからず、調べる前にやめてしまった。

母のケアマネージャーのすすめでデイサービスの見学に行くことにした。
グループホームの見学では所長さんの「ひとりでがんばらない」という言葉で
突然涙が溢れ止まらなくなった。
がんばっている自分が溶けて行った。

結局、痴呆といっても父はほとんど自立しているし、理解力もあるので
ふつうのデイサービスでクラブ活動が絵画教室の日に通うことにした。
父には最初、絵画教室に通うと話しておいた。
だから父はまわりの人を見て、言った。
「あんなに悪いのかい?(自分は)」
まじめな父は私のすすめるままにデイサービスに通うことになった。
介護認定度は要介護1となった。

 

2003年11月~

Sixth Stage  

身体能力の低下、変化開始             

夜になると週に1,2回寝ぼけてしまうこと以外、それほど大きなこともなく
すぎていたが、父はしきりに頭がぼーっとする、めまいがするといっていた。
しかし、これらの症状も心配して翌日確かめると「そんなことはない」というので
ふらつきも震えもみられないので聞き流していた。

ある日、外出しようと階下に降りていくと、一階の廊下に父がすわりこんでいた。
「おっこちたよ」
「痛いとこある?」
「背中とうで、たちあがれないよ」

私は、クッションを持ってきて父の体がたおれないように
ささえて、固定して、それから救急車を呼んだ。
母の入院していた病院へ運んでもらう。
父は痴呆症を忘れたように、救急隊員に受け答えをし、
担当医も私が言うまでまったく気が付かないほどしっかりしていた。
見つかったのは、以前にしらないうちにやっていた、背骨の圧迫骨折。
父の猫背がひどくなっていたのは知っていたがまさか圧迫骨折とは。

父は朝から少し、めまいがするので私にそれを伝えようと
2階にあがってきたが、途中でスリッパがすべるので脱いで
くつしたも脱ごうとしてバランスをくずし、2,3段落ちたという。
幸いに頭もうっていなかったのでよかった。

先生は入院すると確実に寝たきりになってしまうから
おうちのかたは大変だけど家で療養した方がいいと言われた。
痛み止めとシップをもらって、タクシーで家に帰った。
父はけろっとしていた。
家では寝返りを打つときだけ痛みが走るとかだったが、
ふつうに過ごし、ときどき、別のところを痛がるので
数回病院へ連れて行き、診察をうけ、なんでもないことを
先生から直接話してもらって、本人もまた納得して帰ってきた。

ところがこの療養中に父に大きな変化がおきた。

朝、父が部屋のドアの前でボーっとしている。
よだれが流れっぱなし。
「どうしたの?」
「・・・・・」
「おとうさん!」
ソファまで連れて行ってもボーっとしている。
疲れた様子だ。
話しかけてもボーっとしている。
母はあまり気にしていない。

どうしよう。
こういうときに大病院はたいへんだ。
主治医といっても非常勤で連絡が取れないから、
看護師としか話せないし、その人はこちらのことなど知りもしない。
冷たい対応にがっかりで、予約日をほんの少しはやめるくらいしかできない。
ただ、父は国家公務員だった時代から虎ノ門病院を信頼し、ずっと
お世話になってきているから今まで病院をかえることなど考えもしなかっただろう。
私もできなかった。
それに疲れていて昔の先生に連絡する気力もなかった。
いま、冷静に考えるとK先生(すでに別の病院におられた)
に連絡すればどうにかなったのだ。

変更した予約日を待つまでの2週間ほどで父の様子が少し治まった。
またいつも程度にもどった。
背中の痛みも治まっていた。

診察日にその経過を話したが、とくに注意はなかった。
ケアマネージャーは近所の病院を教えてくれてはいたが、
やはり私は決めかねた。

結局父は相変わらずで2ヶ月に1回の普通の診察を受け、
たいした変化もなく、内科の先生の指示にしたがって、
体のチェックをうけながら、ゆっくりと過ごした。

私も新しいことには向かえず、このままでいることを願った。

2004年〜

Seventh Stage 

びまん性レビー小体病

パーキンソン/副作用 本人はしっかりしている

くるみクリニック、西村先生との出会い 

告知

2004年になって、父の病状に「痴呆」とは言い切れない何かをずっと感じていた。
2ケ月に1回の神経内科と内科の受診はずっと続けていた。
内科の先生がとても言い方で、父の健康チェックはどんな小さなことでも
見逃さないで、私の話も聞いてくださった。
大変な人数をみていらっしゃるのに、インフルエンザの時期になると
父のために、椅子から離れて、予約を取ってくださったり、
奔走してくださった。

父は、通うことを仕事としているみたいに、まじめに考えていた。
混雑する病院の待合室で、いろんな話もした。
認知症なんか忘れるくらい、しっかり話をした。

家では、あいかわらず、外出というか、外へ行きたい衝動が強かったけれど、
父はいつも父で、父自身、自分の変化に不安を持っていた。

2004年の外来診療指示書は7月の分までしっかり父が管理していた。
ホッチキスで止めて、自分の机の左の壁にぶら下げる。
デイサービスでもらった指体操の表もしっかり綴じてある。

2003年から2004年の間に父が、どうもまっすぐ歩けないというので予約を取って診察を受けた。
先生は「パーキンソンだね」と言った。
パーキンソンの薬が処方され、それからしばらくして父は廃人のように
なった。

おかしいと訴えて、薬はやめてもらった。

この辺りから私は先生への不信と、だれも教えてくれない認知症の対応に
憤りを感じ始めた。
発散できない苦しみみたいなもの、あきらめたくない気持ちと
わからない気持ちと私のほうが不安のかたまりだった。

父は相変わらずでいろんなことがあったけど、
デイに行くようになってから不穏なことは少なくなり、
好きな絵を家に帰ってからも自分で絵の具や、花を用意したり、
書斎でモデルになるような、花の写真を本から切り抜いたり、
まだ積極的だった。

この頃のケアマネさんは私の話をよく聞いてくれたり、猫話にもりあがったり、
私の癒しのために来てくださるような方だった。
この方から「くるみクリニック」の話をだいぶ前に聞いていたが、
大病院派だった父も私もなかなか決心はつかなかった。

くるみクリニックのホームページを見て、心が決まった。
行ってみよう。

父に話すと、「行ってみようか」とスムーズに決まった。

今、手元に記録がないので、何月だったか覚えていないが、
二人でタクシーにのり、大原交差点まで。
そして、小さなクリニックのドアを開けた。

西村先生との出会いは私の心の雲を一挙に風で吹き飛ばすくらいの
衝撃だった。

「びまん性レビー小体病」

いままでの経過を話して、先生からもレビーの話を聞き、
私がいままで疑問に思っていたことも解きあかされていった。

何よりも診断出来る人、理解してくれる人が目の前にいることに
大きな大きな安心感を覚えた。
父にもレビーの説明をした。
というか、それまで認知症であることを話したことがなかったのだけれど、
くるみクリニックの待合室で、父に脳の状態の説明をした。
父はそれを聞いて、自分が変だったことを確認出来たと言った。
極めて冷静だった。

そしてくるみクリニックは家族を思いやってくれることに気がついた。
大病院では決して聞かれなかったことばが
私の胸にいっぱい、いっぱい響いた。
父が不穏になったら、どう対処するかもわかってきた。

もっと嬉しかったのは、尊厳を持って、父に対等に
先生が話してくださること。
父は先生の顔をみるのがうれしかったし、お話するのも大好きだった。
スイッチオン、スイッチオフでも先生のところへ行くとしゃきっとしたりした。

私が余計なこというと、そんなこといってはだめと叱られた。

先生はホームページでも相談室を作っていらっしゃるけど、
私は余裕がなくて、一度も利用できなかった。
そのかわり、父のことではメールをし続けた。
先生の早い対応にいつも感謝した。

父とくるみクリニックに通い、帰りにコンビニに行って
買い物をする。
これが父にとっても私にとってもとてもいい習慣となった。

母は虎ノ門病院の先生に、上手に電話を入れた。
「高齢になって通いきれないので、近所の病院に行くようにします。」と。
先生は心配してくださったようだが、これまでみてくださったことに
感謝した。

内科は先生と7月の約束だったので、これで虎ノ門病院通いは
終了した。
7月に行くと、先生が退職していらした。

続く